賢 2歳

家族旅行6日目 Forbes→Cowra

jumping

蚊だらけの街Forbesにはバイバイする事に。3泊分前払いしてしまっていたけれど、マイケルが『これは無理!!』と判断を下しました。

マイケルがテントや荷物を片付けてくれている間、私たちはプレイエリアに行って遊んで来ました。この、ジャンプできる遊具が最高に楽しくてね。私も思いっきりジャンプしちゃった!

たくさんの蚊に襲われてスーパー不機嫌になったマイケルの運転で、Cowraという街へ。

隣の大きな街に行こうと言っていたからすぐかと思ったら、100km離れているらしい。さすがオーストラリア・・・。

途中、車の博物館に寄りました。世界のクラシックカーを中心にしたコレクションでしたが・・・。何故か日本の霊柩車が!!!何と!!!

確かに、見方を変えてみれば外国人が『Cool!!!』と思う要素はあるかもねぇ。ギョッ!としてしまいましたが・・・。タキシード姿の白人マネキンが横に配置されていて、シュールでありました。

ここの係のオバさんが、非常に賢を気に入ってくれたらしく、遊んでくれましたよ。

さて、今日の宿泊地となるCowraという街、全く知りませんでしたが、日本に非常にゆかりのある土地でありました。

どうして日本人である私が、この事実を知らなかったのか!!恥ずかしくなるような気持ちがしました。

ここ、Cowraは、第二次大戦中に日本兵、イタリア兵、ドイツ兵が捕虜として収容されていた土地だそうです。

そして、日本兵による史上最大の1000人以上による捕虜脱走事件が起こり、200人以上が射殺されたそうです。また、その際に自決した人達もいたそうです。

当時、日本政府は日本兵の捕虜は存在しないと公表していたそうで、今でも教科書にはこの事件は載っていません。何故??

捕虜になったなんて知れたら、日本にいる家族が村八分になると思い、ほとんどの兵士は本名を名乗らず、イタリア兵、ドイツ兵が家族に手紙を書く中、日本兵で書く者はいなかったそうです。

収容所は手厚い待遇だったそうで、日本人のためには特別に魚も食事に用意してくれ、野球場も建設してくれたり、十分な睡眠も食事も与えられていたそう。

それなのに、何故脱走を計画したのか。

「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という「戦陣訓」が叩き込まれていたから。

欧米人が『戦争から生きて帰れば英雄になれる』と考えたのに対して、日本人は『生きて帰るなんて恥ずかしい』と考えたのですね。胸が熱くなります。

脱走の際に近くの家に逃げ込んだ兵士もいたそうで。家の人がクッキーと紅茶を用意してくれても、日本兵は全く手を付ける事がなかったそうです。

その後は日本人墓地も建てられ、この墓地は日本領土としてオーストラリアから割譲されています。

Cowraは日豪友好の絆の町となるべく、南半球最大の日本庭園も作られ、平和の象徴であるPeace Bellも首都ではなく、このCowraにあるそうです。

この凄惨な出来事はオーストラリア人にとっても忘れられない深い傷になっており、風化させてはいけないとしている事が伝わって来ました。

それなのに、オーストラリアに住んでいる私ですら、偶然この街を訪れるまでこの事件の事を全く知りませんでした。

feeding carps

その南半球最大という日本庭園を訪れてみました。

日本式の庭の向こうにはユーカリの木が見えていて、日豪友好の象徴の街にふさわしい、ゆったりした空気が流れていました。

「ありがとう」と言いたくなるような気持ちになりました。

Cowraのこの事件は、日本テレビでドラマ化された事があったようです。

あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった